発明家、間宮精一のつくり出した逸品たち
Mamiya(マミヤ)

独創的な発想による発明家、間宮精一によってこの世に多くの逸品が生みだされました。それはカメラに限ったことではありません。厳しい局面の中、独自の着眼点で、日本初のキャッシュレジスターを発明するなどその才能は多岐に渡ります。成功を修めてもなお発明家の血が騒ぎ続けてカメラの世界へと入っていきます。今のマミヤを生み出すに至る情熱発明家の軌跡を辿ってみましょう。

懸賞荒らしと呼ばれるほどの発明家

独創的な国産ブランドMamiya(マミヤ)からは、発明家・間宮精一の手により数々の逸品が世に送り出されました。
精一は1899(明治32)年、事業家で発明家でもある間宮勝三郎の家に長男として生まれます。中学生の頃よりカメラに興味を持ち、木村伊兵衛や井上正夫とともに浅草のカメラ店の同好会「ヤマト写真倶楽部」で活動。コンテストの常連で、懸賞荒らしと呼ばれるほど入選をものにしていました。やがて精一の関心はカメラそのもの、その製作にも及びます。
勝三郎は、伊豆の国市大仁で木屋呉服店などの商売を営む一方、さまざまな発明をしては製造、事業化していきました。1916(大正5)年には間宮式金庫を開発、株式会社間宮堂を設立し製造を行います。しかし、23(大正12)年の関東大震災の痛手から、また、進んだ海外製品が入ってくるようにもなり、会社は窮地に立たされます。
旧式金庫に将来性はないとみた精一は、当時流行し出したキャッシュレジスター(金銭登録機)の研究に専心します。海外製に対抗しうる国産レジスターを目指し、約1年で間宮式加減算機、さらには日本初のレジスター間宮式金銭登録機を発明、その翌年27(昭和2)年には試作に成功します。
舶来品信奉の強かった時代で、当初の反響は芳しくなかったものの、実業家藤山愛一郎の資金援助を受け、28(昭和3)年、藤山を社長に据えて間宮堂を改組した日本金銭登録機株式会社(現日本NCR)の設立に漕ぎつけます。精一はその技師長となり、その後も金銭登録機の開発に従事しましたが、37(昭和12)年に退職、カメラの世界へと帰ってきます。
再び懸賞コンテストに投稿したり、写真雑誌に文章を寄せたりしているうちに、生来の発明家の血が騒ぎます。まず独自の着想を試作機の形にして特許をとり、40(昭和15)年には、若き写真仲間・菅原恒二郎を社長、精一を技師長にマミヤ光機製作所を設立し、そして、精一が初めて世に送るカメラMAMIYA-SIXが発売されます。

独創的名機、MAMIYA-6の系譜

MAMIYA-SIX (IV型以降MAMIYA-6)
1940年発売

外観上、レンズとカメラボディが蛇腹でつながっているのが特徴的です。この蛇腹によってレンズ部分をボディに収納することができるようになっており、コンパクトに携行することができます。
折りたたみのできるフォールディングカメラで、バネによってレンズ部が展開するこのようなスプリングカメラは、日本では先行して流行していました。しかし、構造上ボディ側との連携が難しく、レンジファインダー(連動距離計)を搭載するのには困難でした。精一はこの問題を逆転の発想で超えていきます。MAMIYA-SIXの発売に先立って、まずはバックフォーカシング機構の特許をとります。レンズ面ではなく、フィルム面を前後移動させることによりフォーカシングを行うことで、スプリングカメラながらレンジファインダー内臓を可能とします。
MAMIYA-6は改良改善が繰り返され、シリーズには多くのモデルが発売されます。また、ユーザーからの要望にもよく応じ、当時は特注や改造のものも多かったといいます。

MAMIYA-6
AUTOMAT
1955年発売

レンジファインダー内臓だけでなく、セルフコッキング機構も備え、さらにスプリングカメラでの搭載は世界初のオートマット機構も実現しています。スプリングカメラの一つの完成形といえるでしょう。

MAMIYA-6 2
AUTOMAT
1958年発売

MAMIYA-6シリーズは最終モデルとなりますが、MAMIYA-6の名は、89年発売のNew Mamiya 6に受け継がれます。6×6判レンズ交換式レンジファインダー。一見わかりませんが、蛇腹が内蔵された沈胴式で、MAMIYA-6のスタイルを踏襲しています。6×6判フィルムカメラとしては決定版ともいえ、高めの価格で中古市場で売買されています。New Mamiya 6と区別して、MAMIYA-6シリーズを「旧MAMIYA-6」と表記する場合もあります。

プロにもアマにも、愛され続けるMamiya

Mamiyaはプロにも愛され続けています。

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プロが求める高機能

1970年発売のMamiya RB67 Professionalに始まる、6×7判一眼レフカメラRB67シリーズ、その電子化を進めた、82年発売のMamiya RZ67 Professionalに始まるRZ67シリーズは、スタジオカメラとして、プロカメラマンの作品や広告写真に重用されてきました。質実剛健なボディはプロが求める高機能と信頼を勝ち得てきました。
広告写真だけでなくテレビCMや映画撮影などでも活躍する市橋織江氏の愛機がRZ67 Professional IIということで、若いカメラファンにも認知されており、オールドファンからニューカマーまで注目のシリーズです。60年発売のMamiya Pressは、中判ではもっとも大きい6×9判。このシリーズは、写真館や建築写真の現場などで使われてきました。

若い人も愛用 多彩な機種

中判二眼レフにもMamiyaの才は及んでいます。MAMIYAFLEXは試作機のみながら既に完成度の高い6×6判カメラ、48年発売のMAMIYAFLEX JUNIORから始まって、続いたCシリーズは2眼レフ唯一のレンズ交換式。69年発売のMAMIYA C330は日本製二眼レフの最終形態として、中古市場でいまも人気です。
Mamiyaの多才は中判カメラにとどまりません。35mmカメラでも多数の機種を展開していました。61年発売のMamiya Prismat NPは、Nikonで初めての廉価一眼レフカメラ、NIKKOREX FのOEM元となったことで知られています。
35mmフィルム使用、国内唯一のスクエアフォーマットカメラ、59年発売のMamiya Sketchは10ヶ月しか生産されなかった希少モデルですが、女優の広末涼子さんが愛用していることでも知られ、こちらも若い人へも知られているMamiyaカメラです。

このように多くのプロやアマに愛されてきたMamiya。中古市場では手頃に入手できる機種も多く、いまのカメラファンにも身近に愛され続けています。

買取実績