本家を超えた 和製ハッセルブラッド
探究心の赴くままに数々の社会的成功者となった吉野善三郎。現状に満足することなく、持ち前の探究心で米屋からカメラの世界へと導かれました。2億円もの開発費をかけ夢に没頭して作られたゼンザブロニカは世に世界一と認めさせるほどの注目を浴びることになります。ここでは凡人では成し遂げられない、彼の生い立ちからご紹介しましょう。
多彩な成功にも満足しない夢追い人
一人の男のカメラへの情熱と夢、その結実がZENZABRONICAというカメラでした。
1911(明治44)年、東京は神田の小さな米屋の三男として産まれた吉野善三郎は、持ち前の探究心を発揮して、創意工夫で家業をよく支え、店を大店の米屋へと発展させました。そしてこの頃、初めてのカメラを買い求めます。撮影を楽しんでいた善三郎の興味は、やがてカメラそのもののメカニズムの方へと移っていきます。ライカやローライといった世界の名機の蒐集、研究の日々が始まります。しかし、名機といえども善三郎にとっては一長一短があり、では自分が満足できる一台「世界一のカメラ」を自らの手でつくり出したいと思うようになります。
第二次世界大戦で国内が苦しくなってくると、米穀商は政府公団に組み込まれ、善三郎はなりゆきで役人になったものの性に合わないと辞し、公団で使っていた自動車を活用して運送業に活路を見出します。敗戦後は地元神田にカメラ屋を開業、高級カメラに精通した店は評判となりました。47(昭和22)年には新光堂製作所なる製造販売会社を立ち上げます。時計付きライターは駐留米軍から人気を博しヒット商品に、中蓋付きで西陣織が張られたコンパクトは百貨店に高級ブランドを築き上げました。この新光堂も飽くまで善三郎のカメラの夢のための階梯の一段でした。善三郎は新光堂で得た財を世界一のカメラの夢へと注ぎ、開発費は当時の金額で2億円にも上りました。52(昭和27)年、カメラの開発研究に着手し、56(昭和31)年6月に試作初号機完成、ブロニカカメラ株式会社を設立します。58年(昭和33)年10月、いよいよ夢のカメラ1号機、ZENZABRONICAが完成し、翌年3月、フィラデルフィアカメラショーにて世に知らしめられました。6×6判、縦走りフォーカルプレーンの日本国産一眼レフカメラはたいへんな注目を集めました。
ものづくりの浪漫 ZENZABRONICA終わらず
88年、ZENZABRONICAを生み出した吉野善三郎が亡くなります。享年77。
10年後の98年にはタムロンに吸収され、ゼンザブロニカの法人はなくなりますが、ETR以降の製造販売は継承され、ZENZAの名は取り除かれたもののBRONICAの名は残ります。
デジタルカメラ時代のなかで中判カメラ市場は縮小、順次既存シリーズの販売が終了していき、ついに最後の機種BRONICA RF645(2000年発売)が販売終了を迎えます。2005年、タムロンは中判カメラ事業から撤退しました。BRONICAは47年の歴史に幕を下ろします。
広く人々に届けたい
新機種ごとに機能を追加し複雑化していく他社に反して、ZENZABRONICAはシンプル化による低価格の道を歩みました。夢の一台がZENZABRONICA Dならば、その夢を、たゆまぬ改良改善によって、高嶺の花ではなく、より広く人々に届けるのが善三郎の思想だったといえるでしょう。歴代フォーカルプレーン式ブロニカで最小最軽量、優美なデザインで高機能なZENZABRONICA Dは今では希少な存在となっていますが、ロングセラーとして人気を博したZENZABRONICA S2は、中古市場で比較的手頃な価格で入手することができ、中判カメラに入門しようとする人には今も身近な機種といえます。
生産終了も今も修理可能
実は D型が短命に終わったのは、“本家”ハッセルブラッドから同社1000Fとデザインが酷似しているとのクレームを受けてのことでもありました。しかし、中身に関しては“本家”と違えたものであり、デッドコピーではないことは前章で紹介した通りです。
生産終了し販売会社がなくなってしまって、もはや中古製品しか入手できなくなったZENZABRONICAですが、イストテクニカルサービスという会社が今も修理を行っています。同社代表取締役の吉野博夫氏は善三郎のご長男なのです。
ZENZABRONICAの思いは、これからもカメラファンとともにあり続けるでしょう。